「東日本大震災」の医療支援活動に参加して 愛媛大学大学院医学系研究科地域医療学講座:川本龍一

 はじめに
 2011年3月11日に発生した東日本大震災は、国内観測史上最大のマグニチュード9.0を記録し、それにより誘発され東北地方太平洋沿岸を中心に広い地域を襲った巨大な津波は、多くの方々の貴重な生命を奪いました。この未曾有の地震と津波の犠牲者の方々には、心からの哀悼の意を捧げます。避難所生活者は当初40万人を超え、被災の甚大さがうかがわれます。福島原発事故は放射線やエネルギー問題で多大な影響を及ぼしており、国内外に大きな課題を投げかけています。日本全体で支援し、復興に協力していくことが必要とされています。

 派遣まで
 大震災の発生を知ったのは、学生と一緒に訪れた往診先である。テレビには押し寄せる津波で街中を何台もの車が流される光景が映っていた。陸地であったところがあっという間に海になり、停泊中の大きな漁船や観光船が流されていく。これが映画ではなく現実の光景であるとは俄かには信じがたいものであった。次々と報道される情報を聞くにつれ、今後どうなるのか、人命の救助はどうするのか、自分にできることはないかなど取り止めもなく心に浮んできた。ただテレビの画面を見ているだけで何も出来ない中、何らかの形で支援活動に参加したい、しないと後悔すると感じ始め、参加への準備を始めていた。愛媛からも複数の機関が支援体制を準備するなか、自分のスケジュールの中で参加可能な愛媛大学医学部医療支援チーム第2班(上野教授をチームリーダーとする9名)の一員として宮城県の石巻市の医療支援に参加することが出来た。
 

 医療支援活動について
 第1日目 4月9日(土)に出発し、飛行機で羽田経由福島空港着、福島空港では放射線量計が1マイクロシーベルトを示しており福島原発事故の影響を改めて感じる。この時、これが「目に見えない恐怖」の一つだと実感した。われわれは2台のレンタカーに分乗し一路石巻市へ向った。途中の高速道路はあちらこちらで歪み地震の影響を語っていた。走る車は支援物資を運ぶトラックが多く、最初はスムーズに走っていたものの仙台に近づくにつれ渋滞を呈していた。その日は、前班からの申し送りを受けるため、宿泊基地となる松島の大観荘という高台のホテルに夕方到着した。夕食をとりながら、災害現場の写真、余震の現状、診療活動の様子、心構え、注意事項などについて相引教授より説明を受けた。1週間という短い期間だが、きちんと任務を果たせるかどうか不安な思いに駆られる。通常なら観光客で賑わっているはずのホテルも照明は半分ぐらいと薄暗く、食事も震災食という簡単なものであった。建物には被害はなく、電気や水道もすぐに回復したというものの宿泊客は少なくほとんどが復興関係者であり、重い雰囲気に包まれていた。予想以上に寒いと感じる。
 第2日目 4月10日(日)朝5時半に起床、6時に朝食を食べ、前班に見送られ出発。石巻赤十字病院(石巻日赤)でカルテ(カルテは手書きのA4サイズの紙切れであり、氏名、年齢、性別、避難所、保険の区分、診療内容と処方が書かれ、担当地区ごとに段ボール箱に入れられて石巻日赤の本部で保管)を預かり、担当の渡波地区に向った。渡波地区は、石巻日赤から車で40分ぐらいのところにある海岸に面した地域。津波で海岸地域一帯が呑み込まれたということで、たくさんの瓦礫と車がひっくり返り、いたるところで車が家の中に突っ込み反転し横たわっている状況であった。車での避難中に渋滞に巻き込まれ津波に流された状況が想像される。この地域は津波で家屋の1階全部が水に浸かったということであった。道路や線路は分断され、線路の上や田畑に車が転がっている状況、さらには泥による粉塵が飛び回っている中、地元の住民と自衛隊が瓦礫処理にあたっていた。
 
 渡波小学校の一階の医務室が診療室。まだ、水道は普及しておらず、トイレは野外の仮設トイレを使っている状況。1階の教室にはたくさんのポリバケツに水が用意され、衣服などの支援物資が既に山積みされていた。一方、約600名が避難している小学校には既に自治会組織が稼動し、各教室の班長が集まり毎日ミーティングが開かれていた。情報伝達・交換が整然と行われ、物資の分配や清掃、配給、炊き出し、入浴などについて話し合いが持たれている状況には感心した。避難ブースは各教室や体育館の床にダンボールや毛布を敷いて隣と隔てる衝立はなく、プライバシーは保てない状態であり、部屋の入り口にはそのまま土足が並べてあった。ダンボール仕切りの必要性を感じたがこの状況下では仕方がないかも知れない。部屋は粉塵が舞っている状態で、被災者の多くがマスクをしていた。一方、体育館の中央には支援物資に囲まれるように設けられた詰め所があり、既に看護協会から派遣された常駐のボランティアの看護師が既に活動しており、被災者の健康管理を24時間行っていた。学校全体の被災者の健康に関する情報が把握され、その情報に我々も助けられた。理学療法士やマッサージ師などもボランティアで活動していた。
 医師は愛媛大、広島県医師会、東大が担当。診療は9時より各地区の医療班が集まり現状と申し送り、10時より午前の診療開始、昼食は持参したカップラーメン、午後は13時から15時、さらに申し送りという流れであった。多くの医療チームが参加し、いずれも3から7日で入れ替わる中できちんと情報が引き継がれる体制作りが既に出来上がっていた。3名の医師が外来、4名が小学校の2・3階の教室に避難されている方の部屋回り。外来は3診で実施(小学校の机と椅子を並べただけ)。入り口では、事務方がカルテの作成や仕分けを行い、次に看護師による問診と血圧・体温測定、その後医師による診察、さらに薬剤師による調剤と薬の説明という流れ作業が、狭い1つの教室内で整然と行われていた。高血圧、高脂血症、変形性膝関節症、感冒、気管支炎、夜間トイレを我慢することによる膀胱炎や便秘、瓦礫の処理中の外傷、定期薬の処方などが多く、とりわけ咳をしている人が多いのが印象的であった。被災者は手洗いとマスクはきちんとしており、我々の支援活動中には感染症の蔓延はみられなかった。多くの受診者は血圧が異常に高く、時に拡張期血圧が高いという状態であった。地震後慣れぬ環境での避難生活、余震に対する恐怖、将来への不安、不眠、寒さなどの要因が影響していると思われた。
 毎日夕方6時には石巻日赤に各地区担当のリーダが集まり本部との情報交換が行われていた。参加チームのメンバーはいずれも支援活動に対する熱い思いで参加しており、チーム医療と連携がきちんと行われていた。
    
 第3日目 4月11日(月)、ほとんどの店が未だ閉鎖。渡波地区に向かう途中に自衛隊の駐屯基地があり、数百台の車とテントが整然と配列、有事を考え常日頃から訓練を受けているからこそこのような未曾有の大災害にもきちんと対応できるものと感心した。毎日何度か地震があり、揺れには慣れる。朝6時から夜21時までびっしり活動。しかしながら申し送りなどのミーティングを含め診療時間は実質6時間、渋滞の中での移動に時間を要した。医療関係者の支援はかなり出来つつあり、地元の開業医も活動を再開したようであった。ただ被災者は仮設住宅もまだ数百戸しか出来ておらず行く所がまだない状況や散乱する瓦礫の山をみると行政支援の遅れを感じさせられた。未だ非常に寒く手持ちの防寒具は全部使用。一方で被災者の環境を考えると胸が痛む。粉塵に自分自身も咳込むようになり、マスクを2重にするとかなり改善した。
 第4日目 4月12日(火)、原発事故がレベル7になったという。チェリノブイリと同じレベルに驚く。明日からヘルメットを携帯することが決まる。砂埃もひどく咳が続く。被災地でも火事場泥棒が頻発し、被災者の家財道具が盗まれているそうである。被災者は皆も同じだからと警察にも言わず辛抱しているという状況であった。石巻日赤では、たまたま夕方藤原紀香さんが慰問に訪れており、その姿を間近で見る。外来ホールで患者さんや支援活動の関係者に挨拶をし、「頑張ってください!」という姿に元気をもらう。
 第5日目 4月13日(水)、周辺の開業医を含めた医療機関が6割ぐらい復旧し今後は活動を地元医師会に戻す方針というニュースが流れる。小学校にも水道が回復。ホテルのご飯が日に日に普通レベルに改善し、建物も明るくなっている。でも街中は瓦礫とごみの山。後は国と自治体レベルの問題と強く感じる。
 第6日目 4月14日(木)、渡辺 謙さんが渡波小学校に慰問に訪れ、支援頑張ってくださいと激励される。被災者は皆嬉しそうに握手や一緒に写真撮影をしており、それぞれの立場に応じた支援活動に感心する。スターの力はすごいと感じた。炊き出しでは、自衛隊はもとより、焼きそば、カレー、たこ焼き、ラーメン、握りずし、コーヒーサービスなど毎日いろいろなボランティアが訪れていた。外来では、今日夫の遺体が見つかり連絡を受けたという不眠症の患者や、家族は何とか助かったものの自宅は半壊状態で、無事だった2階の部屋に子どもと親戚が7人で生活し、自分が生活していた1階は使えず避難生活をしているという高血圧の高齢者などいずれも辛い思いをしている患者と出会った。
 第7日目 4月15日(金)、街中の店も次第に開店。
 第8日目 4月16日(土)午前で医療支援終了。
 第9日目 4月17日(日)、再開した仙台空港から伊丹を経て松山に帰省。

 石巻日赤病院について
 今回、愛媛大学医学部医療支援チームは石巻市の支援拠点である石巻日赤病院に派遣されたが、この病院は万一の大規模災害発生時には県指定の地域災害医療センターとして救護拠点の役割を担うよう、2006年に免震構造で建設され、三陸自動車道 石巻河南ICより車で5分の位置にある。この未曽有の大震災にも医療の拠点として十二分に機能しており、ソフト・ハード面ともに素晴らしい病院であった。

 最後に
 今回の活動を通して、自然災害の凄まじさ、それに立ち向かう住民のたくましさ、チーム医療・連携の重要性について身を持って体験しました。短い期間ではありましたが衣食住を9日間にわたり共にした愛媛大学医学部医療支援チーム第2班の皆様には様々なことを教えて頂き感謝申し上げます。そして快く送り出していただき自分が抜けた分の日常の業務の負担をしていただいた勤務先の職員の皆様にも、改めて感謝申し上げます。石巻市はたくさんの医療チームが支援活動を行っており、少しずつ医療情勢も回復しつつあります。地域医療の崩壊が叫ばれる中、被災地も例外でなく被災前から医師不足が問題となっており、我慢をしておられる患者も多くおられます。継続的な医療支援とともに一日も早い復興を願っています。
 我々も、今回の経験をもとに今後の災害時や非常時の医療体制に生かし、備えてまいりたいと思います。